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椙山女学園大学 人間関係学部ブログ

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異文化理解の最近のブログ記事

「国際化と人間」の海外研修として、今夏も8名の学生(他に国際コミュニケーション学部1名、教育学部3名、生活科学部5名)がシドニー大学ウィメンズカレッジで学んでいますが、その経過報告です。

プログラムは前半のenglish classが終了し、いまは最後のプレゼンテーションに向けて各学部独自の研究成果をとりまとめているところです。

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この海外研修プログラムは、現地で暮らすためのコミュニケーション能力を高めながら、さまざまな体験や自主研究を通して異文化理解を目指すもので、参加者たちは大いに迷ったり戸惑ったりしながらもたくましく適応しています。

2週目にはウィメンズカレッジ恒例のformal dinnerに招待され、イギリス寄宿舎の伝統を体験しました。formal dinnerとは、カレッジの学生全員が帽子とマント姿で食堂に勢揃いしてディナーを食べ、ゲストのスピーチを聴くという行事で、カレッジの学生たちが一斉にスプーンでテーブルを叩く中をゲストとともに入場し、ほとんどハリー・ポッターの映画の世界でした。

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数年継続しているCampbelltown Projectでは、シドニー郊外のCampbelltownという新興住宅地に出かけ、アートセンターでアート活動を通した地域貢献について学び、またマウリの人たちとダンスを踊りました。これらの活動報告や自主研究の成果はSydney Reportとして後日まとめられることになっています。

学生たちは31日に帰国します。

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南部アフリカのナミビア共和国に住むオバンボ族の社会生活について、特にポスト・アパルトヘイト世代の若者のアイデンティティ形成と社会関係という観点から調査研究をしている山川早弓さん(3期生、英国マンチェスター大学)が帰国して、「文化人類学」の講義の中でその一部を紹介してくれたので報告したいと思います。


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オバンボの人々の住む南部アフリカのナミビア共和国は、アフリカ地域でも最後に独立した国で、長く植民地支配のもとに置かれていました。また、キリスト教の浸透も合わせて、新しい慣習の誕生や、慣習の「伝統化」など、実践/概念の両面で社会生活に大きな変化がもたらされました。
例えば、オバンボの人々の女性通過儀礼は、キリスト教宣教師団に禁止された一方で、植民地政府からは統治上の巧みな策略によりオバンボの「伝統」という付加価値を与えられました。
キリスト教化が進みにつれ、女性の通過儀礼の替わりに教会での結婚式が一般的な慣習として行われるようになりましたが、通過儀礼の一環であった何日間にも及ぶお祝いの部分はそのまま継続されました。教会での式と以前から続く祝宴全てを併せた新しい通過儀礼形態ができあがっていき、現在では「伝統」の一つだと位置付けられています。また、これらの変化により、男女が同じ儀礼を通して成人という社会的立場を与えられるようになったことも注目すべき点です。若者たちは、こうした新たな「伝統」とその継続的な変化への関与を通じて、アイデンティティの再確認/再構築を行っているのです。

考えてみると、日本社会の成人式にしても結婚式にしても、少なくとも、明治以降大きく変わり続けてきたことは明らかです。たとえば、成人式は最近では行政などの地域が主催しているわけですが、元々は、家や一族によって担われていたものでした。1 月15日(2000年より1月の第一月曜日)が成人式とされるようになったのは、太平洋戦争後のことです。むしろ、新しく創造された伝統であるのです。
また、結婚式にしても、少なくとも、明治以前の人々の結婚式は、人前婚(宴をはって、近所の人を招いて、固めの杯をかわすもの)であって、神の前で結婚を誓うという形式はありませんでした。明治以降になってキリスト教の禁教がとかれて、キリスト教の諸儀礼が持ち込まれ、そのひとつであった神前婚の形式が、神社によって模倣されてうまれたことによっています。また、最近のホテル等の結婚式場でチャペルを模した式場でキリスト教式の式典を催すという形式もまた、新たに創りだされた伝統といわねばならないでしょう。

このように、私たちの日常生活の中で「むかしから」行われていると思われがちな事柄もじつは、新たに創りだされたものであることが多いことは、知っておいていいでしょう。くわえて、このように「伝統」を変えてきたことを望ましくないと考えるのではなく、むしろ、新たな伝統を創造しつつ文化を維持継承していくことこそが、私たちのアイデンティティ形成にとって大きな意味を持っているということ、このことは、覚えておいて良いと思います。

山川早弓さん、どうもありがとうございました。
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 卒業生(大学院修了)のKAさんから、この6月から8月にかけて滞在したニュージーランドでの体験についてレポートが届きました。

 私は、幼い頃より、空道という武道に取り組んできました。
 今回の旅は、約二ヶ月ということで、体がなまらないよう、到着してすぐ、空道のスタイルに近い格闘技のクラブを探し始めました。
 偶然のチャンスというものは、本当に偶然舞い込んでくるようです。こちらについてから、一週間、いろいろと、稽古できる場所を探しあたってみたのですが、なかなか満足するものが見つからず。あきらめかけていた時に、家の目と鼻の先に、キックボクシングのクラブがあるということがわかり、訪ねてみました。始めはとても緊張し、とりあえず、稽古についていくだけでした。

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  稽古を初めてしばらくしてから、たまたま試合がオークランドで行なわれるということで、稽古の中で組み手を行なう機会がありました。
  組み手は、みなさんなかなか経験したことがなく、苦労していたのですが、私にとっては、いつも稽古していることなので、すんなり取り組むことができました。そんな様子をみて、コーチから試合出場のお誘いがあり、帰国間近で試合に出場することになりました。
  私を除き、そのクラブからの出場者は5人。いわゆる、クラブの精鋭たちです。そんな精鋭たちにとっては、私は女性ですし、一外国人でしかなく、稽古の中でも、口を聞いてくれないどころか、目も会わせてくれないような、なかなか交流ができない方々でした。
  試合は、体重別で行なわれました。私は、体が小さいため、私の階級に出場選手がおらず。そのため、一つ上の階級で出場することになりました。相手は、自分より遥かに大きな選手です。安全なルールだといえ、やはり体の違いに大苦戦しました。

  試合後、目も会わせてくれなかった精鋭たちが私に走りより、私を囲み、試合結果を讃えてくれました。もちろんそこには、ただ出ただけではなく、試合内容と結果がともなってこそだなのですが。

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  国際交流、グローバル化だからと、英語の必要性が、巷では大騒ぎされています。しかし、私からしてみれば、英語というのは、ただの道具でしかなく、必要なのは、中身だと感じます。自分の中身は、「空道一直線」。腹に括った一本の槍があります。これしかないけど、逆に言えばこれがあります。言葉ではなく、体現してこそ得られた「国際交流」でした。
 日本人ならではの武道に取り組んできて、よかったと思える瞬間でした。


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先週末(6月5ー6日)、留学生の結婚式に出席するために、上海に行ってきました。飛行時間は3時間、あっという間の旅でした。上海の町は万博の開催ということもあって、大勢のひとでにぎわっていました。

本学部及び大学院の課程を終えた留学生のSさんは、留学中に学んだ人間関係力と日本語を生かして、上海の翻訳会社で活躍しています。

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今日は、オークランド市の中心部から車で5分ほどのところにあるニュージーランドでも最大級のマラエ(マオリたちの集会場)に案内してもらいました。

この前にも書いたように、ニュージーランドの先住民であるマオリは白人たちが来る前、「白い雲がたなびく」アオテアロア(ニュージーランドのこと)各地で部族ごとに領域を持って生活していました。現在オークランドというニュージーランド最大の都市があるこの地には、ガティ・ファツア(Ngati Whatua)と自らを呼ぶ人びとが暮らしていました。しかし、後からやってきた人びとが増えるにつれて、彼らの土地は次第に狭められて、大都市となったオークランドの各所に点々と集落を作って暮らすようになっていました。
そうした生活拠点のひとつで、現在、オラケイ・ドメインと呼ばれているところに暮らしていたガティ・ファツア部族のうちのオラケイ氏族の人びとは、1970年代になって彼らの暮らす土地の権利を回復するために500日以上にわたって座り込みを続けたのです。200人以上の逮捕者を出しましたが、その後、かれらは、700エーカーにもおよぶ広大な土地について、主権を回復させることに成功しました。

以下の写真は、オラケイ氏族の回復した土地にたてられた記念すべきマラエ(集会場)です。ちょうど、近くの小学校の子供たちがマオリのことを学ぼうとこのマラエにやってきていました。マオリたちは、まだまだ不十分と考えているようですが、1980年代以降、土地権を含む様々な先住権を回復させてきました。マオリの人口は現在ニュージーランド人口の15%程度とされていますが、彼ら少数者、さらには、先住者の権利をしっかりと受け止めて考えて、社会のなかでどのように受け止めていくための対策を講じていくことが重要だと思います。
日本にも同様の問題がありますね。

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わたしは、先週水曜にオーストラリアでの予定を終えて、タスマン海をこえてニュージーランドのオークランドにやってきました。オークランド大学のJames Henare Maori Research Centreに今週金曜午前まで滞在し、資料収集と情報交換を行う予定です。

皆さん、ニュージーランドにはマオリという先住民がいることを知っていますか?
マオリたちの祖先は、1000年ほど前に、カヌーに乗ってHawaikiと彼らが呼ぶ島からニュージーランド(彼らの言葉ではAotearoaといい、ニュージーランド国家の公式別名として使われています)にやってきました。現在では、かれらのいうHawaikiとは、ソサエティ諸島(Society Islands)であることがわかっています(ここにポリネシアの地図のリンクがあります。ソサエティ諸島は地図の中央、フレンチ・ポリネシアに含まれます。ニュージーランドとの位置関係をみてください)。かれらは、風の力と彼らの航海に関する知識によって、Aotearoa(白い雲のたなびく場所という意味だそうです)にたどり着き、また、Hawaikiとの間を往復して入植したのです。
マオリたちの国、Aotearoaに白人たちによって発見されたのは、1642年、オランダ人のアベル・タスマンによるとされています(オーストラリアとを隔てている海が彼の名前にちなんでタスマン海と名付けられているのですね)。つづいて、1769年イギリスのジェームズ・クックの船団がやってきて、その後、ヨーロッパ人たちがクジラ取りやアザラシ取りのためにやってきました。
その後、英仏の植民地拡大闘争のなかで、イギリス系の住民たちがマオリの首長と組んでイギリス国王の庇護のもとに入ることを選択したのが、1840年に締結されたワイタンギ条約でした。この条約を根拠にして、白人たちは植民地化を進めたのです。1860年から10年にわたるマオリ戦争が戦われますが、マオリは破れマオリたちの主権が奪われていきました。
20世紀に入るとマオリたちは「マオリ青年党」を結成して、ニュージーランド議会に議席を獲得するなど、権利復活の運動を始めます。また、第一次世界大戦や第二次世界大戦(太平洋戦争)にマオリたちも参軍して活躍するなど、次第に、地歩を固めていきます。1960年代になって、世界的なマイノリティの権利主張に応じて活動を強化し、マオリルネッサンス(マオリ復興運動)のなかでマオリによるマオリのためのマオリ学の構想がたてられて、現在ではニュージーランドではすべての大学にマオリ学部が設置されています。
また、1975年になって、マオリの権利喪失問題について主管するワイタンギ審判所がもうけられ、さらに、1985年にはワイタンギ条約の内容についてマオリに対する権利侵害を少なくするよう改めてワイタンギ条約法が修正され、その後、土地権や漁業権をめぐって、マオリたちの権利回復が進んでいます。

先週木曜、たまたまだったのですが、大学に設置されているMarae(マラエ:マオリの集会場で、当大学のマオリ学部に隣接して建設されています)で、オークランドの旅行学校の生徒たちがマオリについて学ぶクラスが開かれていましたので、参加してきました。
クラスの参加者の出身は多様で、ニュージーランドの白人、マオリ、フィジー島のインド系、韓国人などでした。この日のクラスは、マオリの重要な儀礼が行われるマラエの意義とか、マラエに入るための儀式を再現するとかいったものでした。ニュージーランドの観光産業は国民総生産の13%と大きく、マオリの文化は重要な観光資源なのです。生徒たちも真剣に学んでいました。


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